この森にたどり着くまで。
この森に初めてきたのは8年前のことでした。まだ世界は新型コロナを知りませんでした。
そのころの僕は自分でもよく分らないですが、いつも「森」のことを考えていました。毎日、東京での仕事は刺激に満ちていました。その一方で誰も知らない山深い森こそが自分のいる場所という思いもありました。
八ヶ岳南麓・清里に小さな森が売り出されていることを知って、何度か下見をして、思い切って購入したのはその年の夏の終わりでした。標高1000mのそこはもう秋の気配が濃厚の漂っていました。森の冷気を感じながら、ここでコーヒーを飲んだら最高だろうな、と思ったことを鮮明に覚えています。
東京ではサードウエーブのコーヒー店が流行っていました。ただ、僕はあまり興味が持てませんでした。コーヒーの知識や味覚に乏しいということもあったと思います。そして、僕がコーヒーに求める最大の条件は、どこでどんな状況で飲むかというロケーション、あるいはシチュエーションだからです。
例えば都内でもよく行くドトールコーヒー。どこで飲んでも同じ味かもしれませんが、旅先で飲むドトールコーヒーはいつもと違います。数年前、旅した金沢市のホテルの正面にたまたまドトールコーヒーがありました。何気なく入りましたが、ホットコーヒーの味わいがいつもの違うことに驚きました。結局、滞在中は毎日通って1時間以上をそこで過ごしました。チェーン店だし味は同じだと思います。でもこちら側が旅という非日常というシチュエーションがそう感じさせたのだと思います。以降、「旅先のドトールコーヒー」が旅の習慣になりました。
学生時代、探検部にいました。世界で一番美味しいインスタントラーメンは嵐の山中で食べた一杯だった、という原体験があるのもしれません。山仲間と感動の涙を流しながらラーメンをすすったのはあれが最初で最後でした。コーヒーの味わいもその延長線にあります。もちろん普段暮らしている横浜や仕事先の東京でもたくさんのカフェに入り、たくさんのコーヒーを味わってきました。ただ、山での一杯にはどれも敵わない、と思ってしまうのです。
昔、写真家の藤原新也はチベットの高濃度の青空を見てしまった目には、その後どんな場所でどんな青空を見ても濁って見える、と自身の随筆に書いていましたが、少し大げさに言えばそんな感覚に近いのかもしれません。
森の中でコーヒーを飲むにはまず山小屋が必要だと考えた僕は当初、自力で山小屋を建てようと考えていました。実を言うと、その数年前に実家(長野県茅野市)近くの実家を山林に6畳ほどの小屋を実際に建てた経験があったからです。しかし、結果を言えば、僕の新たな山小屋計画は頓挫しました。初代の小屋当時は父親はまだ健在で思えばかなりの部分を父親が担ってくれていました。週末に帰るとかなり作業が進んでいたことを覚えています。しかし、その後父は亡くなり、今度は全部ひとりで建てなくてはなりません。しかも、東京での仕事が多忙を極めていました。森は所有できたのにこのままでは永遠に建てられない、と思い始めました。
単純な話、地元の工務店にお金を出して頼めば小屋はすぐに建つことは分かっていました。ただ、毎日暮らすならともかく、趣味の小屋にそんな資金をつぎ込むことは、小心者の僕にはできませんでした。なので最初の3年はグランピング用のテントを立てて、月一回ほど出かけて、そこで過ごしていました。ガソリンストーブや焚き火で湯を沸かして、コーヒーを淹れて、まずは当初の目標は達成できたのです。
大好きな八ヶ岳の中に自分の森を持てたことに自分自身、かなり高揚していました。その中で飲んだ最初のコーヒー、それは途中のコンビニでバタバタと買ったインスタントでしたが、僕には最高の一杯でした。これ以上、何を求めるんだろう、と思いました。
林を抜けてくる冷気、木洩れ日、葉擦れの気配、小鳥のさえずり…。みんな東京には何もかもあって、お金さえ出せば手に入ると思っているけど、目の前の世界は東京には何一つない、と思いました。
ただ、人間は欲深いものです。しだいにテントだけではなかなか満足できない自分がいました。テント張るだけなら、最初からキャンプ場に行っていればよかったという思いも…。そこで小屋に代わるアイデアが浮かびました。キャンピングトレーラー(エンジンがついていない牽引式タイプ)の存在です。
これを森の中に引きこめば、小屋を建てないで済む。しかも車内にはキッチンもベッドもトイレ、ヒーターも冷蔵庫(ガス式)もすべてがついている。しかもタイヤがついているので、建造物(固定資産)とはみなされず、固定資産税はかからない。あるゆる可能性を考えるとキャンピングトレーラー以外に選択肢はない気がしてきました。
森を手に入れれから2年後の秋、フランス製のキャンピングトレーラー(ただし中古品)がこの森にやってきました。最初にやったことはキッチンで湯を沸かし、リビングスペースでコーヒーを入れたことは言うまではありません。
(以降、次回に続く)
(参考・森の広さは100坪、価格は50万円でした。傾斜地ではなく、平坦地で一坪あたり5000円という破格の値段でした。コロナ後以降、移住者増加やキャンプブームあって相場は上がったそうです)
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小林キユウ 料理写真家 長野県茅野市生まれ。横浜市在住。中2の釣りキチに始まり、大学探検部を経てアウトドア歴30年超。著書に「キャンプで淹れるおいしい珈琲」(誠文堂新光社)など多数。ホームページ https://www.kobayashi-kiyu-photo.com/
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